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医療的ケアが必要な子どもや気になる子どもの保育について

本来、子どもは水たまりがあればジャブジャブ入りたい、木があれば登ってみたい、機械があれば壊して中を覗いてみたいという「本能的活動意欲」があります。ところが子どもの育つ環境の縮小化とか大人教育の押しつけや飾り立てた衣類などによって、幼い頃から押さえ込まれ、探索する心がすっかり萎えてしまった子どももいます。でもひとたび、目を輝かせてドロンコ遊びをする障害児の姿から刺激を受けた、前述のような姿の子どもが一緒になって素っ裸になり、ダイナミックにドロンコ遊びを展開していくシーンは見事に「共通項の保育」を証明しています。 

(いっしょっていいね・・・松岡俊彦著 筒井書房 1997年 より)
渕野辺保育園二代目園長(現・愛の園ふちのべこども園) 松岡 俊彦




本園に在園する子どもは集団の中で育ちながら上記のような「共通のステージ」を持っています。その中で、例えば、障害児として確定診断を受けている子どももいます。
しかし、障害児の子どもが在籍しているクラスだからといって、障害児と非障害児の子どもの保育を「足して2で割る」ような保育を行う必要はないのです。保育者が「ある子ども論」に終始しなければ、障害児の子どもにも受容と共感をベースに両者が有する「共通項の保育」を目指し、互いに集団の中で自己実現ができます。

もちろん、障害の区分や重たさを充分に認めながらも、病理学的に捉えず、もっと柔軟に受け入れ、個々の行動特徴を「表現パターン」として受け止めていくことで、ときに障害児にとって「保育」は「療育」よりも成果を上げることがあり、結果的に全面発達をすることに繋がっていきます。

療育には、理学系のもの、感覚統合、行動療法、遊戯療法なども含む臨床心理系のものなどがあります。しかし保育という営みの中で、一定の効果をあげてきた事例の多くは、それらの治療的技法を駆使して障害児の子どもへ取り組んで返ってきた姿ではないことを保育者は胸の奥底で実感として持っています。

「保育」を活動意欲をベースとして遊びの形態を取る身体活動、思考活動とするならば、身体各部位の末梢神経を通じて、大脳中枢への活性化を促進します。ひいては、それらが脳細胞のネットワークにバイパスをつくります。だからこそ、障害児に限らずどの子どもにも「知識や技術の断片的な詰め込み」であってはならないのだと思います。競争原理の分離集団(セグレーション)では、できる、できないが唯一の価値になってしまいます。しかし、発達の多様性を認める統合、包括集団(インテグレーション)のクラスのパラダイムならば、どの子も主役であり、みんなで個々の「困っていること」を助ける仲間関係に展開していくことができます。

当然ですが、障害そのものは「単なる発生出現率」の問題なので長い人生の中では、どなたにも関係があり、社会全体で考えていく問題なのは言うまでもありません。そして、発達障害児、身体的障害児といえども「発達のみちすじ」は非障害児のそれとなんら変わりはありません。
最初は、互いに目を合わせ、意識し、模倣行為をして、物の貸し借りをして「仲間」になります。

ある卒園間近のお母様から「これだけ多くていろんな子どもがいるから、うちの子どもに合う子が必ずいるだろうという理由でこの園に決めたのです。」とうれしいお言葉をいただきました。
障害児も非障害児も互いに認めあい、育ちあい、「共通項の保育」にロマンをのせて常識的枠内での発想に陥らず、どの子も「その子らしい姿」を発揮できるインクルーシブ保育を大切にしていきたいです。
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